百年の孤独

「ねえ、お姉ちゃんって、全然大人にならないね」
「そうかしら？」
「だって、初めてあったのが俺が５歳の時だろ。それから１０年も立ってるのに、お姉ちゃんは昔のままだ。それと、ゼロスお兄ちゃんも。まあ、ゼロスお兄ちゃんは、もともと何歳か分からないような感じの人だけど。お姉ちゃん、今年でいくつなの？」
「ふふ…」
リナは、１５歳の少年にデコピンを食らわせる。
「いってー、ひどいなあ、リナお姉ちゃん」
「女性に歳の話はタブーなのよ。女の子にもてたかったら、覚えておきなさい、少年」
少年は、じゃあまたね、と叫んで山道を駆け下りていく。その背中には、果実やキノコが山と積まれた籠をしょって。リナは、小さくなっていく少年の姿を見て、そして山の上から風景を見晴るかす。どこまでも続く、穏やかな平原。所々にある街。１０年前、この風景が気に入って、二人はここに根を下ろしたのだ。長かったようで、短い、とても短い１０年。
優しい夕べのひととき。夕日が、最後の光を街に投げかけている。教会の尖塔の長い影。
「今日ね、下町のマルコくんが言ってたよ。あたしたちが、ぜんぜん老けないって。」
「そうですか。では、そろそろですね」
「うん、そろそろ、ね」
二人は顔を見合わせてくすくす笑った。
「あーあ、また引っ越しか。まあ、荷物なんてないに等しいけど。このコテージを借りたのも、家具付きだったからだし。一緒に暮らし始めたときにゼロスが買ってくれた、引き出し付きのタンスみたいなおっきなトランク、あれにあたしの全部の服、充分入るしね。」
「僕はいつも神官服ですし」
「それよ。いいの？プリーストが妻なんて持っちゃって」
「さあ？宗派によると思いますが。それに僕はこの世界の神官と言うわけではありませんし」
「でも、この百年は、あんたはこの世界の住人よ。禁を犯しているんじゃないの？」
「そういうのも、刺激的でいいですね」
「街によっては、追い出されかねないわよ？」
「そしたら、次の街を捜せばいいんです。街は無限にあります。少なくとも、百年の暮らしを満たすには充分な数の街が」
「次は、海の側の街がいいな。ここの木の実やお肉も美味しかったけど、久しぶりに新鮮な魚が食べてみたい」
ゼロスとリナは羊皮紙に描かれた地図を広げる。
「今まで、行ったことのない大陸がいいなあ。ここなんかいいんじゃない？」
「ここは、夏、暑いですよ」
「あら、暑いのなんか、あたし平気よ。あんただって、平気でしょ。あたしが夏服作ってやるまで、夏もずーっとそのうっとおしい神官服着てたじゃない。いいわね、ここに決め！さて、引っ越しはいつにしようかなっと」
「今すぐでも構いませんが？」
「親しくなった近所の人に、お別れが言いたいの。明日にしましょう」


「リナお姉ちゃん、引っ越すの？急だなあ。もっと早く言ってくれれば、お別れパーティーも準備できたのに」
「そんな大げさにすることもないでしょ。ゼロスの仕事の都合で急いで行かなきゃいけなくなったの。今まで仲良くしてくれて、ありがとね」
リナは、マルコの手に、ぽんと万年筆を渡す。
「しっかり勉強して、偉くなれよ、少年」
「俺より年下に見えるお姉ちゃんに言われても説得力無いなあ」
「こーらっ」
リナは、軽くマルコをぶった。
「元気でね、お姉ちゃん」
リナとゼロスは、この街の十年の暮らしの中で親しくなった人たちに、挨拶していった。みんな、寂しがってくれたが、気持ちよく二人を送り出してくれた。肉屋の主人からは、見事なハムの塊を、酒屋からは二人が引っ越してきた年にできた赤ワインを貰った。
「ほんとは、リナちゃんの生まれ年のワインを送りたいんだけどなあ」
「それは、ヒミツです」
「これだもんなあ。そもそも、リナちゃんって、酒飲める年なの？」
「それも、ヒミツです」
夫の決めゼリフを使って、リナはその場をさっと逃れた。
十年暮らしたコテージに戻る。すでに荷物は小さくまとめてある。そこに、ハムや野菜や、ワインが加わる。
「それじゃ、行きましょうか」
「うん、行こう」
ゼロスは、リナの手と、荷物を両手に持ったまま、空間を越えた。

☆　　☆　　☆


「不死の契約？あたし、そんなものしないわよ」
「そう言われると思っていました」
「あたしは、人間として生きて、人間として死にたいの。ゾンビみたいにいつまでも生き続けるなんてごめんだわ」
「でも、リナさんは壊れやすい、脆い、人間です。もしかしたら、寿命を全うできない事故に遭うかもしれない。そんなことでリナさんを失うなんて耐えられないんです。永遠とは言いません。そうですね……百年。これだけ、僕と一緒にいてくれませんか？これなら、人間の寿命の範囲内でしょう？」
「そのあいだ、あたしは年をとるの？」
「残念ながら、とりません」
（うーん、この胸、あと何年かすればもうちょっと大きくなってくれると思うんだけどなあ……）
「リナさん、どうかしましたか？何か物思いに耽っているようですけど」
「ううん、なんでもない、なんでもない」
「それで、百年、僕と一緒に生きてくれますか？」
「うん……いいよ」
「嬉しいです、リナさん」
「あのね、ゼロス」
リナはその紅い大きな瞳で、ゼロスの顔を覗き込む。
「こんなことを承知するのは、あたしがあんたを好き、だからなのよ」
「ええ、知ってました」
（くーっ、こいつはいけしゃあしゃあと）
「僕も、リナさんが、この世で、そして今まで生きてきた長い時の中で、一番好きですよ」

「それでは、契約を交わしましょう。少し苦痛を感じるかもしれませんが、すぐ終わります」
ゼロスは、リナの胸に手を当て、いくつかの複雑な呪文を唱えた。リナの身体が、苦痛に小さく震える。
「くう……っ」
ゼロスは、リナの胸にかざした手の中に、小さな宝石を形造った。深い深い紫のアメジスト。
「契約は終わりましたよ、リナさん」
うっすら汗をかいていたリナは、薄れかけた意識を取り戻す。
「くるしかった……この宝石は？」
「僕と貴女の、『契約の石』です」
「ええっ！セイグラムの契約の石は白い仮面だったじゃないの。こんな、小さくてキラキラした契約の石ってあるの？」
「気に入らないのなら、作り直しましょうか？」
「ううん、これがいい。すごく綺麗……」
「宝石屋さんに持っていって、指輪に加工して貰いましょう。僕と、貴女の、マリッジリングです」

くれぐれもアメジストに傷をつけないように、また指輪のデザインも細かく注文をつけて、二人は宝石店を出た。
「さて、これから百年は、何をしてもあたしは死なないわけね。今が１５歳だから、１１５歳まで生きるわけか。」
「しかも老いることなく、です」
「それじゃあ、一つの街に長く暮らすことは無理ね。ゼロス、あんたは獣王様のお仕事はないの？」
「百年の休暇を貰ってきました。これから百年、ずっと一緒ですよ」
「あんた、あたしに飽きたりしないでしょうね」
「リナさんといれば、飽きることなんてあり得ませんよ。むしろ、それが心配なのはリナさんの方です。他の男の人に心を奪われたりしませんよね？」
「ゼロス以外の男に目がいくなんてことはないと思うよ、たぶん」
「たぶん、ってとこが不安ですが、まあいいでしょう」
それから３日。指輪が仕上がった。リナは、細い薬指にぴったりのサイズの指輪をはめ、輝くアメジストに優しくキスをした。そして、二人の新居探しが始まったのだった。

☆　☆　☆


約束の百年のうち、三十年が過ぎた。時刻は夜。リナは、窓から入ってくる潮風に髪をなびかせながら、作りつけのデスクに向かっている。

「アメリア、元気ですか？あたしはとっても元気。ゼロスも元気よ。ゼルは元気にしてますか？それにしても、今やセイルーン王国の女王様になったアメリアに、こんなタメ口の手紙書いちゃっていいのかなあと冷や汗ものです。いま、あたしたちは港町にいます。例によって、場所は明かせません。でも、あたしたちは幸せに暮らしています。（ゼロスの筆跡：ホントですよ、アメリアさん）あなた達に会いに行けないのは辛いけど、これはあたしが選んだ道です。決して心配しないでね。ガウリイは、いい年なのに相変わらずの旅暮らしのようで（あたし達もだけどね）手紙が出せません。だから、アメリアがガウリイをもしみかけたら、リナとゼロスがよろしく言っていたと伝えて下さい。あなた達と旅をした想い出は、いつまでもあたしの胸を温めます。どうか、どうか幸せに時を送って下さい。それじゃあ、また……」

便せんを折り、封筒に入れる。宛先は、セイルーン王城内、アメリア閣下。これだけで、届くはず。蝋燭に灯をともして、封蝋を垂らし、リナのＬとゼロスのＸをデザインした封印を押す。この封印は、「結婚二十年記念」と称してゼロスが造らせたものだ。といっても、二人に手紙を出す相手は、アメリアと、引っ越し先で知り合ったわずかな人たち以外にほとんどいないのだが…。二人宛の郵便物は、とある街の郵便局の私書箱に届くようになっている。ゼロスは、空間を渡って、私書箱に手紙が入っていないかどうかチェックしに行く。故郷のお姉さんとも連絡を取ればいいのに、とゼロスが言うと、リナに思いっきりスリッパではたかれた。リナによれば、「ねーちゃんに、魔族と不死の契約を交わしたなんて知られたら、死ぬより怖い折檻される〜」とのことだが。いまや五十歳に近いお姉さんがそんなに怖いものか？とゼロスは疑問に思う。でも、それを口に出すと、
「あまーい！甘い、ハチミツの砂糖漬けより甘いわ。年をとったくらいであのねーちゃんがちょっとでも丸くなったと思ったら大間違い……だと思うわよ。なんたって、元とはいえスィーフィード・ナイトなんだから。あんたも一度あのゴーモンにあってみれば分かるわよぉー」
とのこと。そういえば、ゼロスも、自分の上司に百年の休暇の目的は知らせていない。もちろん、彼女のことだから、自分たちのことは知られているとは思う。その上で、見逃していてくれるのだろう。
「ゼロス！明日は朝市の立つ日よ！生きのいいオサカナ仕入れるためには、もうそろそろ寝なくっちゃだわ。さ、寝るわよ！」
リナは、壁に作りつけのダブルベッドに潜り込む。ゼロスも、その後からそっと布団に入る。
「リナさん、あの……」
優しく声をかけてみるが、
「あー、ダメ駄目。明日の朝、早いって言ってるでしょ」
「くすん……」
「気持ち悪い声を出して泣かない！」
今日も枕が恋人のゼロスなのだった。

☆　☆　☆


二人があてどない放浪を続けて、６０年が過ぎた。その時、思いがけない知らせが二人に届いた。
ある朝、ゼロスが私書箱から取ってきた封筒をリナが開けた。中身を読む。リナはその手紙を手に持ったまま、立ちつくした。その紅い瞳から止めどなく涙を流して。
「ガウリイ……死んじゃったの」

「リナさん、ゼロスさんへ
一週間前、ガウリイさんが亡くなりました。心臓発作で、苦しむ時間もなかったようなのが、幸いと言えば幸いです。ガウリイさんは、いつもリナさんとゼロスさんのことを探して旅をしていました。もっとも、見つけることは最期まで出来なかったようですが……。ガウリイさんは、故郷のお墓に葬られます。できることなら、いつの日かでいいですからガウリイさんのお墓にお参りして、花をあげて下さい。
いつまでもいつまでもあなたたちの仲間のアメリアより」

「リナさん泣かないで下さい。人間であれば、百年以上の年を過ごすのならば、自然にこうなることは分かっていたはずです」
「う…ん。あたしも覚悟は出来てた。でも、それでも、悲しいよおっ！」
リナは泣きじゃくりながらゼロスの腕の中に顔を埋めた。ゼロスは、リナの艶やかな栗色の髪を撫で、あやすように抱きしめた。
「リナさん、これからもこういうことは続いていきますよ。よほど長生きでない限り、アメリアさんも、シルフィールさんも、リナさんより先に死んでしまいますよ。あなたは、僕と不死の契約を結んだときから、こうなることを僕は怖れていました。あと、４０年の命の貴女。別れは無数にやってきますよ。そして…」
「お葬式にも出られないし、お墓に花を捧げるときも顔を隠さなくちゃならない。アメリアの手紙からすると、もうガウリイのお葬式はすんじゃったみたいだね。行きたかった、せめて最後に死に顔くらい見たかった」
「リナさんには僕がいるじゃないですか。あと、４０年、どんなことをしても貴女とその契約の石は守って見せますよ。自称保護者より、ずっとずっと確実に」
リナは泣きはらした瞳でゼロスに聞く。
「もしかして、あんたガウリイに嫉妬してるんじゃないでしょうね」
「おや？ばれましたか」
「あのねえ、人がこんなに悲しんでるのに、ヤキモチなんで妬かないでよ。あんたはガウリイが死んじゃって悲しくないの？」
「うーん……寂しいですね」
「それだけ！？」
「僕の生命は、あと何千年あるのか、もしかしたら何万年あるのか、期限が分からないんです。その中では、リナさんと生きる百年もあっという間なんです。人と死に別れることで、いちいち悲しんでいたら、身が持ちません」
「ひどい！あたしがあと４０年後に死んでしまっても、やっぱり『いちいち悲しまない』わけ？」
「まさか。リナさんが死んだら、僕はたぶんたっぷり千年は仕事が手に着かないと思いますよ」
ゼロスは、涙でぐちゃぐちゃになったリナの頬に優しくキスをする。
「リナさん、貴女のような人は、僕の今までの命の千年にもいなかったし、きっとこれからも現れないと思います。その魔力、明るさ、そして可愛らしさ。もしも貴女が転生して再び僕の前に姿を現したとしても、僕は今のリナさん以上の愛は抱けないと思います。だから、安心して下さい」
「うーん、うまく丸め込まれたような……でも、ガウリイのお墓には行こうね、二人で。ガウリイのお墓を優しく彩るような花を持って……」」
「そうですね、そうしましょう」

やがて、ガウリイの故郷の村の墓場で、神官服の男とヴェールを深くかぶった少女の姿があった。二人は、まっさらな墓の上に、まだ葉の柔らかい、若いツタを絡ませていったという。
ツタの花言葉は、「死んでも離れない、友情」

☆　☆　☆


やがて、九十年が過ぎた。アメリア女王の死去は、号外の新聞によって知った。喪主は夫のゼルガディス、とその新聞は伝えていた。リナは、ガウリイのときにできた覚悟で、それを受け止めた。
「それにしても、ゼルガディスさんは亡くなりませんね」
「うーん、身体をキメラにされると案外丈夫になるのかも」
「でも、僕たちの顔を知っている人に出会うのは、嫌なんでしょう？」
「そうよ。だから、あたし達は、アメリアの国葬にもいかない」
そしてリナは号外をおきっぱなしのテーブルの上に突っ伏して、一時間ばかり泣いていた。ゼロスは、そんなリナに声をかけることも出来ずに、ソファに座り込んで、何か考え事をしていた。
アメリアの葬儀が終わり、国がアメリアの一人娘に委ねられたころ、アメリアの墓には、黒い神官服の男と、ヴェールを深くかぶった少女が現れた。彼らは、墓前にリンドウを供えた。
リンドウの花言葉は「正義」。

☆　☆　☆


そして、ついに百年が過ぎようとしていた。約束の誕生日まで、あと一ヶ月半。リナは、いままでのどんなときよりも、生き生きと輝いて見えた。ここは、二人の他にはコックとボーイしかいない、南海のリゾート地。
二人は、真っ青な空の下、プライベートビーチの白い宝石の粒ような砂浜にシートを敷いて、のんびりと冷たいカクテルを飲んでいた。
「どうせ一生を終えるんだったら、これまでに盗賊いぢめで貯めたお金全部使っちゃわないと損だもん。幸い、いや、不幸せなことに、かな？あたし達には子供が出来なかったし」
「僕は、リナさんの娘が見てみたかったですねえ」
「あんたは、教育と称して娘と一緒にお風呂に入ろうとしたりして危険だわ」
「そ、そんな、自分の子供には変な気を起こしたりはしませんよ」
「ちなみに何歳くらいまでなら、一緒にお風呂に入る？」
「そーですねえ…１５歳くらいまでかな」
すぱーん。
ビーチサンダルで頭を殴られる。
「このスケベ神官！１５歳と言ったら、もう大人よ。」
「リナさんのように、ですか？」
「そうよ」
「それじゃあやっぱり一緒にお風呂に入っても構いませんねえ」
「どどどどういう意味よ！どうせあたしは幼児体型よ。ゼロスに変な気も起こさせないわよ！」
「身体は未成熟のままですが」
ゼロスは、起きあがってリナの上に覆い被さる。
「僕が欲情するのは、リナさん一人だけです」
そして重ねられる唇。そっと脱がされていくリナの水着。
「だ、だめよ。ボーイが来ちゃうわよ」
「ボーイさんも、こんな僕たちを見て声をかけるほど野暮じゃありませんよ」
そして、二人は熱い砂の上のシートで、身体を重ねた。あと一ヶ月半。こうして二人が抱き合えるのは、あと何回だろうか。リナも、ゼロスも、頭の中でふとそう考えた。でも、肉体の陶酔が、二人の理性を奪っていった。
リゾート地のコテージ一つ一つにそれぞれ一人のシェフが付く。二人は、お金にあかせて最上級のシェフを選んだ。メニューも、毎日シェフと相談して、旬の食材をふんだんに使った、贅沢な料理を頼んだ。
「あー、今日のロブスター、美味しかったなあ」
夜風の涼しい部屋で、リナは松明でライトアップされた彼らだけのためのビーチを見る。白い砂、碧がかったような青の、透明な海。
「こっちに来て、ワインでも飲みませんか？」
「どーせならシャンパンがいいな」
ゼロスは、部屋の伝声管で、厨房に連絡を取る。すぐに、氷で冷やした容器に入れられたシャンパンのボトルと、２つのシャンパングラスが運ばれてくる。ボーイが、ぷしゅっと音を立てて、シャンパンの栓をうやうやしく抜く。ボーイが丁寧な礼をして部屋を出ていくと、二人はお互いにシャンパンをつぎあった。
「何に向かって乾杯する？」
「リナさんにお任せします」
「それじゃ…私たちの未来に乾杯」
リナはくすくす笑いながら、ゼロスのグラスに自分のグラスをぶつけた。
リナが最高級のシャンパンを味わっているとき、ゼロスは一人グラスに口も付けずに黙っていた。
「なにしてんの、ゼロス。シャンパンの気が抜けちゃうわよ」
「さっきのことなんですが……『私たちの未来』って、あと一ヶ月と二週間しかないんですよ。僕は…僕は覚悟が出来ているつもりでした。でも、いざとなったら怖くなったんです。リナさんを失うのが。契約の石を壊しさえしなければ、リナさんはいつまでも僕のものです。リナさん、僕と一緒に永遠を生きてくれませんか」
「ゼロス……泣いてるのね」
「魔族に涙はありません」
「でも、泣いてる」
リナはシャンパングラスをテーブルにおくと、優しくソファの上のゼロスを抱きしめた。そして、手で顔を挟んで、小さなキスをする。
「ゼロス……それは、ダメなの。そもそも、あたしが不死の契約を交わしたのは、ゼロス、一生あんたと過ごしたかったから。そして、その一生はもうすぐ終わろうとしている。いつか消えるからこそ、人は美しいのよ。ましてやあたしは、老いというものを知らずに百年を過ごした。この時点で、あたしの人生は偽物なのよ。せめて、死ぬときぐらいは、あたしに決めさせて」
「分かりました……すみません」
ゼロスは、一つの決意を胸に秘めて、素直に謝った。

☆　☆　☆


約束の日まで、あと３日。
「ない、無い、なあーい！！」
リナは、朝目覚めると、すぐに叫んだ。
「いったいどうしたんですか、リナさん」
「アメジストの指輪……契約の石がどこにもないのよ」
「おや、それは大変ですね」
「とぼけてんじゃないわよ！いーい、あの指輪は、外れないようにあたしが魔法をかけておいたものなのよ。その呪縛を解いて、あの指輪をはずせる奴が、あんた以外の誰だっていうのよ」
「シェフさんとか、ボーイさんとか……」
「ふっざけるなあ！」
リナはゼロスに枕を投げつける。
「いいから、とっとと出しなさい！さもないと、ラグナ・ブレード出して、自殺してやる」
「今の貴女に自殺は出来ませんよ。不死の契約とはそういうものです」
「ちっくしょー、どこにやったのよ、あれ。そういえば、もう一つだけ不死の契約を無効にする方法があったわ」
「それは……つまり……」
「契約を交わした魔族を滅ぼす！これでどうかしら？」
「それでもいいですよ」
「はぁ？あんた何言ってんの。あんたも死ぬのよ。永劫に近い寿命を持ちながら、ここであたしと心中するっていうの？」
「リナさんがいない世界を生きていても仕方ありません。どうぞ、僕を滅ぼして下さい」
「馬鹿言わないで。あたしはあたしの寿命を百十五年と定めたけれど、それは人間が生きられる最高の範囲内だからなのよ。あんたには、まだ寿命がある。やるべきことがあるってことよ。千年を悠に越えるあんたたち魔族の寿命は、あっけなく百年未満で死んでしまう人間にとっては、眩しい、憧れなんだから。寿命が来るまで、ゼロスは生きなさい」
「……はい」
「で、アメジストをどこにやったの」
「海に投げ捨ててきました」
「なんですってぇぇぇ！」
リナは自分の部屋に入ったかと思うと、すぐにビキニの水着に着替えて、髪をシニヨンにまとめて浜辺へととびだしていった。
そして数時間後。勝ち誇った表情のリナがコテージに戻ってきた。肩が赤く日焼けしている。薬指には、きらりと光るアメジスト。
「甘いわね、ゼロス。このビーチは遠浅だから、浅いところをしらみ潰しに探せばすぐ見つかったわよ。あー、腰が痛ーい」
ゼロスは、無邪気なリナの側に歩み寄り、唇にキスをする。潮の匂いのするうなじから背中への線が、思いがけず色っぽい。ゼロスは、リナを軽々と抱き上げると、ベッドルームまで連れていった。
「ちょっと、何すんのよ。まだ朝の十時よ。あたし、朝食だって……」
文句を言う唇を、冷たい、なめらかな唇でふさがれる。あと三日。それで、この身体を味わえなくなってしまう。

だから、できるだけ、できるだけ身体を重ねたい。
リナさんが、僕のこと以外に何も考えることが出来ないようにしたい。
リナさんが消えてしまっても、僕の中にリナさんの感触を残しておきたい。
だから、だから……。

☆　☆　☆


「魔族のくせに何寝たふりしてんのよ。おきて、起きてよ、ゼロス。お別れの日だよ」
起きたくない。このまま夢だけを見ていたい。けれど、瞼には眩しい朝の光が落ちている。
「今日の朝御飯は、シェフに手伝ってもらったけど、あたしが作ったんだよ。ねえ、食べてよ。起きてってばあ」
ゆさゆさと身体を揺さぶられる。
「寝たふりしたってだめだよ。今日が最期の一日なんだから、時間がもったいないでしょ」
その言葉に、ゼロスは振り向いた。
「あーっ、やっぱり寝たふりだった。ほら起きて起きて。シーツを洗濯屋にだして、敷き毛布を干すんだから」
「リナさん」
「なによゼロス、泣きそうな顔しちゃって」
「シーツを洗濯したって、敷毛布を干したって、今日の夜には貴女はもういないんでしょう？」
「何言ってんの。こういうことは最後までちゃんとするもんなの。さ、ベッドから降りて」
洗濯カゴいっぱいのシーツや枕カバーを抱えて、洗濯屋に行く姿は、まったくいつもと変わらない。
（強い人ですね……リナさんは）
それに比べて、僕は弱い。今日が来ることをずっと怖れていた。
リナは、朝御飯を披露したいらしく、ゼロスの腕を引っ張る。クロワッサンにチーズとスモークサーモンを挟んだサンドイッチ。上にクリームが浮くほどの新鮮なミルク。固すぎもせず、柔らかすぎずのスクランブル・エッグ。魔族は食べ物から栄養を摂ることはない。でも味覚はある。だから、今日の朝食が思い切り美味しいこともちゃんと分かる。
「あ、ゼロス、口の所にクリーム付いてる」
リナは仔猫のような仕草で、そのクリームを舐めとる。リナが、生き生きすればするほど、ゼロスは悲しくなる。
「百年、とうとう二人で生きてきたね。」
リナはフォークを皿に置いて、静かに話しだす。
「ゼロス、ありがと。百年間、ぜんぜん退屈しなかったよ。そしてゼロスを愛してる。百年立った今でも」
「リナさん、僕の我が儘につきあってくれてありがとうございました。僕も、百年間退屈してる暇なんてありませんでした」
「なんか、引っかかる言い方だなあ」
「リナさんが放ったドラグスレイブで変わってしまった地形を元通りにしたり、百人を越す大盗賊団のアジトに一人でほいほい行ってしまうし……。とてもじゃないけど、退屈なんて」
「ふふ……ごめんね。ほんとに、ほんとに、愛してるわ」
「僕も愛してます」

「それじゃ、不死の契約の石を取り出しましょう」
リナがピンと指輪を指先で弾くと、プラチナ製のリングはぐにゃっと曲がり、アメジストが小さな音を立てて転げだした。
「さ、あたしとあんた、どっちが壊す？」
「リナさんの命です。リナさんが壊して下さい」
「臆病者」
「リナさん……リナさん」
ゼロスは、愛しいものの身体を折れんばかりに抱きしめる。
「愛してます……これからもずっと。この百年のことを思い出せば、僕はどんな苦難にも耐えていけるでしょう。この百年は、僕の宝物なのだから」
「あたしも、混沌の海に還ろうとも。あんたのことは忘れないわ。そして、あんたがあたしのことを忘れない限り、いつまでもあたしはあんたのなかで生きていけるのよ」
そして、リナはアメジストを手に取ると、まっすぐな紅い瞳をゼロスに向けた。
「さよなら」
手の平に乗せたアメジストに、魔力をそそぎ込んでいく。やがて、アメジストにヒビが入った。さらに魔力をこめると、アメジストは鈴の音のような音を立てていくつもの破片に砕け散った。リナは床に倒れた。
「リナさん！」
呼びかけても返事はない。いい夢を見ているかのような安らかな顔に、もはや命は宿っていなかった。ゼロスは冷たくなった恋人に口づけをした。そして、声のない絶叫をあげた。こんなに、痛い、熱い、激しい悲しみを、今まで彼は体験したことはなかった。
「リナさん……愛しています……リナさん」
もはや恋人の耳に届いていない声を、彼はいつまでもつぶやいていた。

☆　☆　☆


「おかえり、ゼロス。百年の休暇、満足して？百年分の仕事がたっぷりたまってるわよ」
「ゼラス様……あと、百年だけ、休暇を頂けないでしょうか？」
「おやおや、何を言うかと思えば。まあ、構わないわよ。仕事がもう百年分増えるだけの話だから。それで？百年の新婚生活のあとで、もう百年何をしようというの？」
「弔いの旅を……」
ガウリイを。アメリアを。旅の仲間達を。そして、彼が誰より愛したたった一人の少女を……。彼は弔いに旅立った。真の孤独を味わう、その百年の重みに耐えて。



……またリナちゃんが死ぬ話を書いてしまいました（反省）。けれども、小説全体のイメージはそんなに暗くないと思うのですが、いかがでしょう？仲良し夫婦の二人を描きたくて、この小説を書きました。あと、リナちゃんの強さのようなものが伝わってくれると嬉しいです。
ねお☆ゼロリナ推進委員会さまに投稿させていただいた小説です。好評だったので嬉しかった一作です。死にオチなのにそんなに暗くなかったところは私の創作の中では珍しいです。