CRYIN' SKY



「雨ですよ、リナさん」
ゼロスは、揺り椅子に座った少女に話しかける。
「毎日午後４時から１０分間……統治者ゼラス様のもとで降り注ぐ、慈雨です」
少女は動かない。柔らかく美しいティーブラウンの髪が、眠る少女の顔を僅かに隠している。
「窓を閉めましょう……湿気は、貴女の保存に良くない」
揺り椅子は、窓際から離される。ゼロスは、椅子の背ごと、後ろからリナを抱きしめる。
「ただいま、リナさん。今日も、おとなしくしていましたか？」


暴走し、半年の間に何万人という人を殺めた太母（グレート・マザー）コンピュータ、『スィーフィード』を、僅か一夜で破壊し、英雄となったゼロス。麗しき統治者ゼラス＝メタリオムは、望みの褒賞をゼロスに尋ねた。
「さあ、何でも望みのものを」
「僕があの街で手に入れたものを、僕にお与え下さい」
「……？　何のことだ」
「レプリカント・リナを僕の手に。その他に望むものはありません」
統治者ゼラスは、扇を唇に当て、眉をひそめた。
「あのレプリカントは研究所に送られる。なぜ『スィーフィード』が暴走したのか、原因の究明には欠かせない素材だ。悪いが、別のものを望んで欲しい。財産なら、いくらでも与えるが……」
「リナさんを研究所になんて送らせない。彼女をどうぞ僕のものに。どんな金も、宝石も、僕の心を動かしません」
「まあ、お前は、人と変わらぬ心を持って造られたからな。しかし、彼女はお前の恋の相手にはならんぞ。もう一度起動しても、彼女はお前のことなど覚えてはいない。それでも構わないというのなら、考えなくもないが……」
「僕は二度と彼女を起動しません」
「それでは、彼女は手の掛かる人形と変わらない」
「結構です。僕は彼女の想い出と共に、彼女の抜け殻と生きる……永遠に」
「聞いた話だが、彼女と過ごしたのは一時間に満たない時間だったのだろう？　なぜそこまで彼女に思い入れる？」
「分かりません。でも、一時間。恋をするには充分な時間ではないですか？」
そして、望み通りリナはゼロスの住む部屋へ送り届けられた。───裸で箱に詰められ、傷だらけの物体として。

ゼロスは、レプリカントの修理方法を本で学び、少しずつ彼女の傷を修復した。ありあまる財産と、そして時間。やがて、リナは完全な姿を取り戻した。皮膚はどこをとってもなめらかな象牙色。レーザーに焦げた髪を手で一本一本植え替え、白い唇に淡い紅を差した。
「いつまでも僕の側にいて下さいね、リナさん」


外では雨が降り続いている。
「ああ……今日は、農業地区のための３０分降雨でしたか。でも、たまには雨の風景もいいものですね。リナさん、今日は貴女のために新しい服を買ってきましたよ」
ゼロスは、揺り椅子からリナを抱き上げると、ベッドに寝かせた。そっと服を脱がせる。

彼女を引き取って何年目だったか。彼女の皮膚が赤くすり切れているのを見つけたゼロスは、慌てて研究所に彼女を持ち込んだ。
「ああ、レプリカントの皮膚でも、長い間同じ姿勢にしていたり、同じ服で締め付けられれば擦り切れを起こすよ」
診てくれた所員は古い皮膚を張り替えながらそういった。
「じゃあ、どうすれば……」
「いつも同じ姿勢をとらせないこと。たまには服を着替えさせること。洗浄液での清拭はちゃんとやってるようだね……ところで、ゼロスくん。この娘、僕たちに預けてくれないかな。彼女を再起動させるのがいやなら、内部のコンピュータを取り出すだけでもいい。人形みたいに飾っているだけなら、中身はからっぽでもかまわないだろう？」
「お断りします。彼女のハードディスクには、僕と過ごした最後の一時間の記憶が焼き付いている。彼女は僕の側で永遠に眠らせます」
「永遠、ねえ……ただの人間の俺には分からんこったな」
所員は作業を終え、ゼロスは裸の彼女の身体にシーツを巻き付けた。
「ありがとうございました。おいくらですか」
「こんな作業に金なんかいらないよ。それより、彼女の内部コンピュータのこと。気が変わったらいつでも連絡してくれよ」

それ以来、ゼロスはリナの服をこまめに着せ替え、揺り椅子とベッドの間を毎日行き来させている。
「あれから、３０年、ですか……」
ゼロスは歳をとらない。もちろん、リナも。二人は、巨大なマンションの最上階に住み、広い空間を独占している。もう、『スィーフィード』の暴走を覚えている人も少なくなった。同じく歳をとらない統治者ゼラス＝メタリオムは、ときおりゼロスを呼び出し、昔話をした。
「３０年経っても、お前の思いは変わらないか？　ゼロスよ」
「ええ、変わりません。僕が愛をささやくのは、彼女の耳にだけです」
「うらやましいな」
思いもかけない言葉に、ゼロスは瞳をあげた。
「たった一時間の、しかも命を賭した戦いの夜。それから３０年が過ぎても、変わらぬ想い。お前は、本当の幸せを掴んだのかもしれんな」
「ゼラス様は……」
「私にとっては、私が統治するこの都市が恋人だ。寂しくはない。ただ、お前のような愛には、嫉妬さえ覚えるよ」
ゼラスは扇を閉じて、ドアを指し示した。ゼロスは、深く礼をして退出した。


新しく買ってきた、淡い緑色のワンピースのリボンを結びながら、ゼロスはティーブラウンの髪に顔を埋める。そして気づく。
「あの日……貴女からはいい香りがしていた」
燃える街を、彼女と共に脱出したとき。サイドシートの彼女を抱きしめたとき、何かがふわりと香ったのだ。
「石鹸かシャンプーの香り？　違いますね、レプリカントは洗浄液には浸かるけど、入浴はしない……香水でもつけていたんでしょうか？」
雨は止み、日が射した。
「あの日の貴女に出会うために、大切なことに気づきませんでしたね。……３０年前の香水。売っているでしょうか」
陽の当たる窓辺にリナを腰掛けさせて、ゼロスは玄関を出た。速乾性のタイルが敷き詰められた道路は、さっきの雨の匂いすら消し去っていた。


「ブランド名とか、名前の一部でもお分かりになりませんか。それでしたら検索させていただけるんですが」
「いえ、本当に香りしか覚えていないんです」
「では、こちらのサンプルの中から順に探していただくしかないですね。……どのような香りでしたか？　シトラス系？　フローラル系？」
「そういうの、全然分からないんです。片っ端からかいでみます。あ、そうだ」
「はい？　何か思い出されましたか？」
「その香りをかいだのは、３０年前なんです。３０年間、同じ香水を出し続けているブランドでないと」
「３０年ですか……ブランドのものになると、結構それくらいの年数同じ香りを提供し続けているものです。そちらからお試しになった方が早いかもしれませんね」
「……もうなくなっているかもしれないですか？」
「見つけたいご事情でも？」
「恋人がつけていた香りなんです」
「え、３０年前って、お客様はまだお子さまで……」
接客していた若い女店員は、ぐい、と腕を先輩店員から引かれる。
「失礼しました、ゼロス＝メタリオム様。３０年前から香りを変えていない香水のリストをお持ちしました」
ゼロスの名を聞いて色を失う若い店員に微笑みかけて、ゼロスはサンプル瓶に鼻を寄せた。

「う……気分が悪いです……」
「専門家でない方が、一度に１００種類以上の香水をお試しになれば、当たり前のことです。ですから、一度には３０種くらいに留めておかれた方がよろしいと……冷たいお水をお持ちしました。リストにある香水は全てそろえますので、ぜひ当店でお探し下さいませ」
「ご親切に……ありがとうございます」
酔ったような気持ちで店を出る。
「兵器が……香水の匂いくらいでダウンするなんて……みっともないですね」
あたりは既に暗かった。
「なぜ、あの夜、リナさんは香水をつけていたんでしょう？」
姉と……レプリカント・ルナ、『スィーフィード・ナイト』と戦っていたと言った。おそらく、命がけの戦いだったのだろう。そんな夜に、リナは香水をつけていたのだ。
「あのいい香りを身にまとって、自分を勇気づけていたのでしょうか？」
でも、その答えを、窓辺の愛しい少女に聞くことはもう出来ない。


「あ……これ……です。この香りです」
「良かった、お客様！」
あの日以来、ずっとゼロスについてくれていた若い女店員は歓声を上げた。
「何という香水ですか？」
「スペルバウンド───呪縛、ですわ」
「呪縛……」
「お買いあげになりますか？」
「ええ、包んで下さい」
ゼロスは、デパートの広い窓から青空を見上げた。
「呪縛という名の香りで、あなたはあの夜僕の心を捕らえたんですね」

マンションに戻る少し前に、夕方の雨が降り出した。
「やれやれ、僕としたことが……何年、この都市に住んでいるんでしょうね」
駆け戻って鍵を閉めると、ゼロスはリナの側で、香水の包みをほどいた。瓶を開け、小さな雫を指に取り、リナの長い髪をかき上げ、うなじに指をつける。部屋の中に入り込んできた湿気が、より強く香りを際だたせる。
「あ……」
気がつくと、ゼロスは涙を零していた。香りによって、より鮮やかに蘇ったあの日の風景。腕の中の傷ついた彼女。激しく、美しく燃えさかる都市。電気自動車の窓の外に流れゆく景色。
『おやすみなさい、ゼロス』
最後にそう言って、瞳を閉じた彼女。
「リナさん……リナさん」
部屋の中に、香りが立ちこめてゆく。その香りが彼女の髪に、服に染み込むまで。僕はこの香水を彼女のうなじに───。
抱き上げると、より強く彼女の匂いがした。ゼロスは、彼女をベッドに寝かせ、唇に唇を寄せた。半分人間/半分兵器として産み落とされた彼が、その長い生涯で唯一愛する存在。
「おやすみなさい、また明日逢いましょう、リナさん」
まだ眠たくはなかったが、ゼロスは香りに酔いしれ、食べ物も摂らずにベッドに入った。

いつもより長い慈雨は、まだ優しくこの空中庭園に降り注いでいる。


CRYIN'CRYIN'
CRYIN'SKY　泣いている




ねお☆ゼロリナ推進委員会さまに投稿させていただいた「BURNIN' STREET」の後日談です。わざわざお越しいただきまして、ありがとうございます。「スペルバウンド」は、（たしか）エスティ・ローダーの香水です。どちらかというと大人っぽい香りで、リナちゃんには似合わないかな、と思いつつも、「呪縛」という言葉の響きに釣られて使ってしまいました。永遠に近い生を、ひたすらにリナちゃんを愛することで生きるゼロス。今のままでは動かないけれど、次に起動させたら永遠にゼロスの記憶をなくしてしまうリナちゃん。まさにゼロスはリナちゃんに呪縛されているのだと思います。