あれはね［後編］




　ナーガの私室を、ノックする音がする。
「どうぞ」
　入ってきたのはアメリアだった。
「あら、リナについてなくていいの？」
「姉さん、この国で学んだことと、旅の途中で学んだこと、色々なことを知ってますよね」
「まあ、そういえるかもね」
「魔族のことについて、ご存じですか？」
「獣神官（プリースト）ゼロス」
　ナーガは歌うように言った。
「彼のことなら、少しは」
「なぜ？　姉さん」
「会ったことがあるのよ」
「いつ……」
「２年ほど前かしら？　月のない夜に、ふっと私の部屋に現れたの。『リナさんの心を大きく占めている女性……一度ご挨拶しておきたいと思いましてね』……って」
「それで、姉さんは……」
「怖かった。見つめ合っているだけで、プレッシャーで冷や汗がだらだら出たわ。何とか、『あんたはリナの何？』って訊いたら」
「それは秘密です、って？」
「ええ。何それ。あいつの口癖なの」
「そうです」
「で？　それ以上のことは私は何も知らないわ。あの怪しげな男がどうかした？」
「リナさんが、会いたがっているんです」
「……！」
「苦しい息の下で、ただ、一人の魔族を想っている……姉さん、私たちに出来ることは無いんでしょうか」
「獣神官を呼び出す？　冗談じゃないわ。それに……」
　ナーガは、ため息をついた。
「あの獣神官なら、もう気づいているはずよ」

　フィリアは一心に祈っていた。不意に、眠気が彼女を襲った。
「リナさんは苦しみの中で闘っている。私がここで眠るわけ……には……」
　フィリアはぺたりと床に座り込み、寝息を立て始めた。
「……フィリア」
　リナが手をのばそうとすると、その手を後ろから掴まれた。
「……リナさん。彼女に目を覚まされると厄介なことになりそうですから」
　リナは、つかまれた手の冷たさに、一筋涙を流した。
「そうね。行きましょう」
「どこへ？」
「小さな町へ。どこでもいいわ、あんたと一緒ならね」
　魔族はベッドからリナを抱き上げた。そして、二人の姿は闇に消えた。


泣き虫の子供見てた　震える目で
不安よ　必要としている


「すみません、すみません……私がついていながら」
涙を流すフィリアに、ナーガは優しく手をかけた。
「あなたのせいではないわ。気に病まないで」
「でも、リナさんは……っ！　この白魔術都市の中心から抜け出したら、あの病では長くは……」
「ゼロス……！　俺が見つけだしてやる。リナを連れ戻すんだ」
「ねえ、あなた、ガウリイさん」
「なんだ、グレイシアさん」
「ナーガでいいわ。リナは、その最後の望みを叶えたとは思わないの？」
「リナの望み？　それは、生きることだ！　あいつが自ら死を願うなんて」
「そうです、姉さん。リナさんは……」
「あの子は、知ってるわ。もう自分が長くは生きられないことを」
「ナーガさん！」
　ガウリイが叫ぶ。
「リナはそんなやつじゃ……」
「誰があの子を本当に証明できるというの？」
　ナーガは静かに立ち上がり、テーブルに手をついた。
「したいようにするでしょう。それが、たった一つのあの子の生き方よ」

　ゼロスの腕の中で空間を越えたリナは、優しい風景を見出した。降り積もる薄い雪。道に出来た深い轍。ゼロスは、マントの中にくるむようにリナを抱きかかえ、宿を探した。
　小さな町だった。宿は、すぐに見つかった。
「ご夫婦ですか」
「はい」
　ゼロスはさりげなく答え、耳まで紅くなるリナを抱きしめた。
「苦しいですか」
　二人部屋に通されると、ゼロスはリナに尋ねた。
「平気よ……って言いたいけど、苦しいわ。息が出来ない。頭が痛い」
「これを食べて下さい」
　ゼロスは、懐から小さな赤い花のついた草を取りだした。
「……薬草？」
「ええ、そんなところです。早く食べてみて下さい」
　リナは、その草の葉を少しだけ囓った。そして、花ごと口に入れて、飲み込んだ。
「あ……」
「痛みがひくでしょう？」
「ほんと。息が楽になっていく……まだある？」
「ありますよ」
　もう一輪。差し出された赤い花を、リナは今度はためらわずに食べた。
「この花をずっと食べていれば、いつか良くなりますよ。巫女たちの祈りなんかより、ずっと確実にね」
「誰にも、分からなかったの。あたしの病は何？」
「どこが、主に痛みますか？」
「頭。頭の奥。割れるように痛いの」
「少し探りますね」
ゼロスは、手袋を外すと、その白い手を半透明にして、リナの頭の中に入れた。
「うあー……変な気持ち」
「なるほど……ね」
ゼロスはリナの頭から手を抜いて、手袋を元通りにはめた。
「cancer（キャンサー）」
「何？」
「人間の医者がそう呼んでいる病気です。悪い血の塊が頭の中に出来て、貴女を苦しめている」
「ゼロス、それ、取っちゃう事は出来ないの？」
「そんなことをしたら、貴女は本当に死んでしまいますよ。頭の中は、大切な血の巡りがびっしりと通っているのですから」
「ふうん……」
「だから、さっき花をあげたでしょう？　あれがあれば、貴女はずっと僕の側で生きられます」
「うん」
　リナの顔色は、幾分良くなっていた。
「ねえ、あたしを抱いて、この町を散歩して。あんたと一緒に来たこの町を見たいの」
「いいですよ、おやすいご用です」
　ゼロスはリナを着替えさせた。そして抱き上げて、二階の窓から外に出た。
　宿屋の一階は、食堂と酒場を兼ねている。小さな広場。薄く氷の張ったバケツに花を入れ、売り歩く少女。
「ねえ、お金、持ってる？」
「持ってはいませんが、創り出すことなら」
「あの子の花束、買ってあげよう」
　二人は、女の子の後ろにそっと下りた。
「ねえ、あなた」
　リナが声をかける。
「それ、売ってくれない？　一束、いくら？」
「一束、銀貨５枚」
ゼロスは、少女の手に金貨を何枚も零した。
「全部売ってね」
リナは、少女から抱えきれないほどの花束を受け取った。
「あの……おつり」
「いいのいいの。暖かくして、今日はもうおやすみなさい」
　二人は宿へ帰った。女将に花束を渡して、全ての部屋に飾らせてしまうと、リナは満足げに微笑んだ。
「今日はたくさん食べられそう」
「なによりですね」
「その前に、あの花をちょうだい。ちょっと頭痛がしてきたから」
「はい。あの花ですね」

「美味しい！　ねえゼロス、もう一人前頼んでもいいかな？」
「はい、お好きにどうぞ」
　リナはウェイターに料理の追加注文をすると、冷たいジュースを一息に飲んだ。
「ああ、いいなあ。どこも痛くないって素敵。頭も痛かったけど、最近は右肩も痛かったの」
「肩ですか。ちょっと触りますよ」
　服の上から、ゼロスはリナの華奢な肩に触れる。
「ああ、転移していますね」
「てん……い？」
「頭の中の悪い血が、肩にも塊を作っている、ということです」
「でも、あの花があれば大丈夫」
「ええ、あの花があれば」

　夕食がすむと、リナはまたあの花を欲しがった。
「たくさんある？」
「ええ、たくさん」
「あたしはずっと生きていける？」
「もちろん」
　花を食べ、唇についた露を拭うと、リナは宿のパジャマに着替えた。
「やっぱり、旅をしてなきゃね。アメリアの気持ちは嬉しかったけど……セイルーンの奥深くでじっと寝ているなんて、あたしの性には合わなかった。そういえば、ゼロス。セイルーンの中心部なんかに来て、苦しくはなかったの？」
「貴女に呼ばれましたから」
「あたしが呼んだら、どこにでも来てくれる？」
「ええ」
「たとえ天国にでも？」
「……」
「冗談よ」
　リナは笑った。
「それに、あたし天国には行けないわ。たくさんの、あたしを想う人の気持ちを置いて、ゼロスとここへ来てしまったもの」
　ゼロスは、リナの身体をきつく抱きしめた。
「僕にとっては、ここが天国です」
「あたしもよ。ここ以外の天国なんていらないわ」
　ゼロスはリナをベッドに横たわらせた。
「今日はもう休みましょう」
「だめ。ねえ……来て」
「僕は貴女を壊してしまうかもしれない」
「ゼロスに壊されるなら、それでもいい。ね。嫌だったら、ちゃんと言うから」
リナはゼロスの手を引いた。ゼロスは、そのままリナの上に覆い被さった。



小さな町へ　どこでもいいわ　あなたと一緒ならね
黄色いリボン　髪に結わって　ほどかれるのを　待ってる



　リナの身体から伝わってきた熱が冷めない。ゼロスは、闇の中でじっと目を見開いていた。リナが、花を欲しがった。二輪渡すと、リナは咳き込むようにそれを食べた。そして、身体の力を抜いて、ゼロスの胸に頭を置いて、眠ってしまった。
　ゼロスは、ただ眠るリナを見守っていた。あの城からリナを連れ出したものとして、リナを見守るのが、己のさだめだった。時の最果ての、この町で。

「リナさん……」
　アメリアは、抜け殻になったベッドに突っ伏して、泣いていた。その涙は、悔し涙だったかもしれない。
「なぜ？　なぜ私たちじゃ駄目なんですか。みんなリナさんのこと、大好きなのに……」
　そっと、長い黒髪がアメリアを覆った。
「姉さん……」
「アメリア、あんたも恋をしたことがあるでしょう。それなら、分かるんじゃないの？」
「姉さんは納得できるんですか？　姉さんは黙って見送れるんですか？」
「そんなわけ、ないじゃない。でも、私たちにはどうすることもできない」
　アメリアは、ずっとリナを包んでいたシーツを掴んだ。
「あのままじゃ、リナさんは……」
「分かってるわ」
　アメリアは姉にしがみついて泣き始めた。十数年を越えてようやくしてやれる姉らしい仕草をしながら、ナーガは遠い空の下の、リナの想いが遂げられるように祈った。



　宿の女将から借りたコートとマフをつけて、リナは、夜の澄んだ冷たい空気の中に飛び出した。花を五輪食べて、ようやく痛みが治まったのだ。凍りついて動かない噴水の前で、リナは子供のように微笑んだ。ゼロスは、心が痛くなるのを感じる。心。魔族の自分にも、愛しさで痛む心があったなんて。
「炎の矢（フレア・アロー）」
　器用に一本だけ創り出した光を、噴水に飛び込ませると、しゅうっと湯気が立ち、噴水が動き始めた。リナはまた無邪気に笑う。ゼロスは思う。この微笑む、いとおしい命を、もう一度動かす呪文があるなら。自分の存在を赤の竜神（スィーフィード）になげうってもいい。でも、分かっている。そんな呪文は、有りはしないことを。
　鋲の打たれた革のブーツで、頼りなくリナはこちらに歩いてくる。
「ねえ、噴水があたしの呪文で蘇ったように、あの赤い花はあたしを蘇らせてくれるのかな」
「ええ、そうなるでしょう」
　ゼロスは、寒さで鼻の先を真っ赤にしたリナを、自分のマントで包み込んだ。
「ふふ……」
　リナはゼロスの手を握る。
「ゼロスが、人間みたいに温かかったら良かったのにね」
　そして、何か小さくつぶやく。
「何ですか？　リナさん」
「何でもない！　あ、噴水が……また凍っちゃう。今度は、炎の矢（フレア・アロー）１０本くらい、いったろかー」
　固く凍りついた地面を、リナはよろよろと歩いていく。ゼロスは戸惑った。さっき、リナは自分にこう言ったように感じたのだ。
（ごめんね）
　噴水までたどり着いて、リナはふらりと地面に倒れた。口から血を流して。ゼロスは、より一層痛む心を隠して、リナを抱き上げた。

　赤い花を噛んで、リナの唇に送り込む。水差しからリナの口に水を注ぎ、花を飲みこませる。その作業を何度かくり返すと、ようやくリナは目を開いた。
「あの赤い花、食べさせてくれたのね」
「ええ」
「これを食べている限り、あたしは生きていられる、ってゼロスは言ったよね」
「ええ」
「あれはね……嘘でしょ？」
　ゼロスは目を見開く。
「答えて欲しい」
「リナさん、苦しくありませんか」
「大丈夫よ。『麻薬』が効いているからちっとも苦しくない」
　ゼロスは、小さく震えた。
「あれはね……嘘です」
「ごめんね。魔族のあんたにとって、嘘をつくことは自分の存在を否定されるように辛いことなのに……」
　ああ、あの時、確かに彼女はそう言ったのだ。
「ごめんね」と。
「いつものように秘密でごまかすこともなく、一生懸命あたしのために嘘をついてくれた。嬉しい」
　彼女は、麻薬の赤い花のように可憐に微笑む。愛しい。失いたくない。でも、もう残された時間は少ない。そしてそれを、彼女も知っている。
　二人は抱きしめ合う。
「花をちょうだい」
「リナさん、これ以上は……」
「せめて明日の朝まで、抱き合っていたいから。そのための力を貸して。大好きな、あたしのゼロス」
　麻薬は、彼女の声だ。ゼロスは、鞄の中のありったけの乾いた花を差し出す。リナは、それを水と一緒に飲み干す。花が無くなると、リナは小さく笑った。そして、ゼロスの身体に手をのばした。

　フィリアが、急に震えた。怯えるような目をして、窓から空を見る。
「リナさんが……リナさんの命の花びらが」
　散っていく。留めようもないくらい。でもそれは、この上ない美しい光景。
「嘘だ……！」
　ガウリイが、背中を壁につけてずるずると座り込む。
　暁の光が、噴水広場を覆い尽くす。霜が降りて、光がはじける。リナはコートとマフを着込むと、もう一度だけ噴水を動かした。溶けた氷の中で、リナの瞳は、空の赤と同じに輝いた。沈みゆく月が、噴水の表面に映っている。



恋は暁色　綺麗な方が　月も濁さずに写す
こちらの水に　沈む姿は　その輝きのすべてか



「ゼロス！こっちへ来て」
わずかによろけるリナを、ゼロスは抱き留める。その透明な深紅の瞳に、自分が映っているのをゼロスは見る。と、リナがクスリと笑う。
「ゼロスの目の中に、あたしが映ってるわ……」



ああ、その時を　忘れはしない　とても綺麗な目だった
私が見える　あなたに写る　菫の瞳の中に……



　そして不意に全てが終わる。それはだれの覚悟も決められないほどに唐突な出来事。彼女は彼の腕の中に崩れ落ちる。その瞳は、微笑みの形を作り、もう二度と開かない。

「リナさん」

　もう呼ばないで。静かに眠らせて。ねえ、いいでしょ？
　あたしの大事なゼロス。






一部引用歌詞に改変があります。最後のシーンの、「恋は暁色」→「恋は水色」、「菫の瞳」→「茶色の瞳」がそれぞれ正しいです。雰囲気、ということで勘弁して下さい。最近、めっきりナーガリナにはまっている羽久です。もちろん一番好きなのはゼロリナですが。というわけで、ナーガさんには格好良くご出演いただきました。
ねお☆ゼロリナ推進委員会さまに投稿させていただいた小説です。最近の私の趣味を反映するように、ナーガが出てきます；　麻薬の赤い花は芥子でしょうか。「cancer（キャンサー）」は、癌のことです。